昭和五十七年八月二日 朝の御理解
御理解十三節 「神は向う倍力の徳を授ける」
北野の中村喜久代さんが、まだ元気で一生懸命、当時の樺目通いをしておられた時分に、ある夜の御祈念に一心にいろんなお願いをしておられたら突然、お声を頂いたと言うのは「これでもおかげを頂き足らんように思うておる」という厳しいお声だったと、言う事ですね。考えてみると、ま、本当に当時の中村さん、今日もそうですけれども合楽に、当時の樺目に御縁を頂かれて、様々におかげを受けられた人です。それは、その、おかげを頂き足らんごと思うておると。またの教えに「信心すれば目に見えるおかげより 目に見えぬおかげが多いぞ」と仰せられます、ね。願って悪い、という事ではないけれども、ね。おかげを頂き足らんような思い方。何とはなしに、はっきりそうでは言うわんにしてもです。これだけ、お参りするのに、ま、このような程度のおかげと、言うような、ね。思い方、結局「目に見えぬおかげの方が多い」と仰せられる大きいおかげの方へ気がつかないでおる、と言う事になりますでしょうね。 「神は向う倍力の徳を授ける」と仰せられます。これは倍力の徳だけの事ではない。倍力の信心も出来ませんのに倍力とも、もっと、でしょうね。おかげの場合なんかは、それこそ信心も出来ませんのに、とにかくおかげを受けてと、言う事になりましょ。思うてみれば、思うてみるほど本当におかげ頂いたもんじゃあると、しみじみお礼を申し上げる。それはそれでも、やはりわかっておる事は、氷山の一角である。本当は、もっともっとおかげを頂いておる。
私は、最近感じます事は、昨日は。ま、お一日でもあるし、日曜も重なって、ま、大変、お広前は、朝から賑わったわけですが。遠方から、お参りする方が、昨日は多かったですよね。それに遠方から参ってくる殆どの方達が、合楽で言われる日参教聴 心行 信行家業の行とこう、合楽の信心はこれだ、という、言われますが、果たして月に一回か二回かお参りをしてくる人達が、それこそ日参 教聴 心行 信行 家業の行というような行が、出来ておるとは思われんけれども、おかげが著しいですね。それはどうゆう事かと言うと、遠距離地から参ってくる人達は、殆ど日参させて頂くつもりでと日々、日初穂がこうしてある。ですから一カ月に一回しか参って来ん人は、三十日分のお初穂を、ならその方達がです。ま、それは日参的信心ですから、日参でもないけれども日参をした。しかも教聴 心行 信行 家業の行などは、日々教えを頂かんから、どれだけその修行が出来ておるかは、わからんと思うです。徹底していないと思うですけれどもです。いかにもそれが出来たかのようにおかげを受けておるという事実でございます。も、本当に不思議な不思議なおかげを頂いてるんです、ね。お互い日参 教聴 心行 信行 家業の行、ね。例えば、こうやって日参をなさる。皆さんの場合でも、なら、それがです、どれほど出来ておるかは、ね。そりゃ取り組んでおるという事だけで、ね。もう出来たかのようにしておかげを頂いておるのじゃないでしょうか。ね。ですからそれが、お徳を頂く事の為の精進、ね。昨日のお月次祭に、私は何を、この月次祭でお話しをさせて頂こうかと、思うたら頂いたのが、「女の方が、お乳を痛いように、痛いだろうと、思われるように張らしておる姿」とあの子供に、ね。しゃぶらせる「おしゃぶり」という、それを二つ、こう頂いた。ハハァ、ね。おしゃぶりというのは、ま、子供が火のつくように泣く時に、ま、ちょっとおしゃぶりをくわえさせとくと、泣き止むですね。
おかげというのは、そんなもんだと思う。それが血に肉になるのじゃない。ただ、おかげは受ける。そん時泣き止むだけである。ね。本当は神様が、それこそ痛いほどに思いを、ね。
「どうぞ 氏子信心しておかげを受けてくれよ」とおっしゃるのは、「どうぞ 氏子信心して」昨日の朝の御理解じゃないですけれども、ね。「尽きぬおかげを受けてくれよ」と言う事なんです。どうぞ 信心して金光大神は、ね。「尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とこう、おっしゃるのですから。だから、尽きぬおかげの頂ける信心とは、お徳を受けると言う事。ただ、おしゃぶり的な信心。言うならば、痛い痒いで、痛かればさすってももらえ、痒ければ痛いてももらう。そん時だけは、それが泣き止んでるようなものであって、ね。その痛い事も痒い事も、また、おかげであると、わからして頂く信心。そこに御礼を申し上げていく信心。そこになって参ります時に思うて見れば、頂いておるおかげは、もう本当に数々である。しかも、なら痛い事も痒い事もおかげであると、言うふうに段々わかってきたら、もう、おかげの中に、言うならば、浸っておるようなものだから、その御礼も喜び心も、また、ひとしおである。そういう例えば、信心がです。そんなら、日参、教聴、心行、信行、家業の行と言われる。それが、ま、本気で例えば、取り組もうと言う気になったら、ね。それが例えば、たまには失敗をしてもね。神様は、その失敗を責められる事はなく、出けとらんけれども出来たかのようにして、しかも、倍力の徳を授けて下さろうと、言うのですからね。なら、私が、今日こうやっておかげを頂いておると言うても、ね。言うならば、実際は、私がおかげを受けておると、言う事は、の、言うなら、半分の信心しか出来とらんのでけれども、出来たかのようにしておかげを下さってあるのじゃないでしょうか、ね。だから切角、御信心をさして頂くのですからね。例えば遠隔地の方達が、も、日参したつもりで、お日初穂をなさる。心は、言うならば、日々、合楽にお参りしておるつもり。
昨日、一昨日でしたかね。あれは、岡山の何とか、と言う御信者さん方が、三名ここに参ってくるんです。
あれは瀬戸田教会の御信者さんが、この人は、月に一回もお参り出けんのです、ね。それでもね。合楽にお参りをさせて頂くようになってです、頂くおかげの数々をね、ま、同じ教会であって、どうしてこれほどおかげが、違うであろうかと、手紙に書いとります、ね。合楽で言われる、ね。黙って治める。成り行きを大切にする。ま、一つ何とか、ね。この三つを、ま、言うならば本気で信心の進めて行く芯としておかげを受けておりますと言う、お手紙でございました、ね。ですから、それが、なら、完璧に出来ておるとは思われんけれども、おかげは完璧以上のおかげを受けておる。今まで、○○教会に参っておって、どうにも出来ない問題が、次々と解決していく。それがおかげになっていくと言う模様が、手紙に詳しく書いてございます、ね。ですから、ましてや皆さんのように日参が出来る。教聴も毎日出来る。毎日、日初穂も出来るのですから、ね。皆さんの頂いておるおかげはね。ま、様々、あるけど。おかげは頂っきらんじゃなくて、ね。それはおかげが、どういうところに現れてくるかわからんのです。わたし共では、ね。
昨日の鞍手の小島さんじゃないですけど。今朝方から、お夢を頂いたと。それがその、猫のお知らせでした、ち。そりゃ猫がち、言うなら不浄ち言われるのですから。不浄、汚れち、言うのではなくて、不浄とは、成就せぬ事とおっしゃるから、成就せぬ元の事。それが、も、いっぱい一匹二匹じゃありません。たくさん猫が、小島家から外に出ていっておるところのお知らせでしたと、こう言われる。小島一家の、言うならば合楽に御縁を頂かれるようになって、熱心に信心を頂いておる、ね。だから、あれを願い、これを願い、成就したりしなかったりのようだけれども、実際はその根本になる、ね。不浄と言あぁ、ね。猫が、も、たくさん小島家から出ていっておると、めぐりのお取り払いを頂いておると、言う事なのである、ね。
難儀に思うたり、痛い痒いを感ずる時に、それこそ「やれ痛や 今 霊験を」という心になって、そのお取り払いを。これは、わからんでしょうが。おかげやら、おかげでないやら、お取り払いを頂いとると、ね。何か形の上にお願いした事が、成就すると、それをおかげと、こう思う程度の事ではなくて、ね。お取り払いを受けておると言う。しかも一匹二匹じゃない。も、たくさんの猫が、小島家から出て行ってるところのお知らせを頂いたと、こうね。私は、合楽で、ね。おかげがあらたかだと、と言う事は、ね。そういうめぐりのお取り払いのような意味においても、また、あらたかである事をお互いが知らなければいけません。でないと、その事に対してお礼どころか、これほど信心するのに、と言うようなとても、私どんな、頂けきらんと言うような落ち込んだ心にさえなってしまう。神様、これは結局、私共が信ずる事です、ね。打ち向かう、神に向かうと言う事は、倍力の徳を授けると仰せられるのだから、ね。どんな場合であってもお徳を頂いておるんだ、と言う、ね。また、形の上のおかげは、例えば、ね。十のおかげを頂いたらね、四神様の御教えにありましょう、ね。例えば一つのおかげでも、それこそ五つも六つも頂いたような思いで、御礼を申し上げていけば、次には五つ六つのおかげになる、とおっしゃる。五つのおかげを頂いたと思う時には、十も二十も頂いたように御礼を申し上げる。それでも実際は、まあだ、御礼が足りん。まだ、おかげの、と言うのは、もっと大きいもんだよと、ま、教えられたわけでしょうね。
「喜びが足らん 御礼が足らん」十のおかげを頂いたと思うた時には、それこそ二十も三十もおかげを頂いた。そこに信心は、喜び上手になれ、と言われるわけがあるわけです、ね。おかげを頂く。神様は、倍力の徳を授けるとおっしゃるばってん、ひとっつも倍力のおかげは下さらん、ね。じゃなくて、実際は頂いておるんだけれども、気がつかん、わからんのでありますからね。言うなら、いくら御礼を申し上げても足りんと言うような信心が、求められるわけじゃないでしょうかね。ここでは倍力の徳をと、こう仰せられますが、ね。また倍力のおかげと言う事も言えるのです。ですけれども、せっかく頂くならば、倍力の徳の方を頂きたいですね。それには、昨日の昨夜の月次祭のお説教の中にも申しましたようにね、ただ、おしゃぶりを頂くような信心から、本当に、ね。神様が、どんぞ、飲んでくれと、言わんばかりにね、お乳をはらしておられるお乳に、すがっておかげを頂く事によって、ね。それが血にも肉にもなるお育てを頂く事が出来る。言うなら、飲んでもらった神様も喜んで下さるわけでしょう。楽になる、ね。神様が楽になられると言う事は、私共も楽になる力を受ける事ですから、本当に倍力の徳の受けられるね、五の信心が出来たら、十も二十ものおかげが受けられるのですから、そうゆう時に私共は、分かりませんけれども、それを信ずる事です。そして十、おかげを頂いたと思う時には、二十もおかげを頂いたような、言うならば生き生きとした心で、御礼を申し上げていくと、言うような信心がさせて頂きたいと思いますね。
どうぞ